私がツイッターにはまった訳
最近、東浩紀の著作を読み漁りひとつのことに気が付いた。
それが表題である。
流行りのメディアには興味がうすく、
単行本、雑誌、新聞やレコードなどといった絶滅品種と化しつつある古典的なメディアを好む。
これまでもSNSも面倒くさい、ややこしいとひたすら無視してきたのだ。
ところが例外的にツイッターには結構はまった。
営業時間中も仕事の合間に接続して投稿している。
外出時もiPhoneの電池の許す限りぶつぶつと。
起きるとまずはTLを遡り、興味のあるないネタがないかをチェックしている。
でもなぜ?
誰かと繋がっていたいとか、コミュニケーションを好む性向ではない。
逆に内向へのベクトルが著しく、情報以外の周囲への興味や関心がうすい傾向がある。
それなのにコレにはまった。
その理由が何となくわかってきた。
ウディ・アレンの映画「アニー・ホール」で主人公が唐突にスクリーンから観客向かって話しかける。
昔から大好きなシーンである。
その証拠に自分が学生時代に撮っていた8ミリ映画でも
同様に主人公がべらべらと観客に向けて言及するシーンがあった。そのまんまである。
当時は意識していなかったが、どうやら「メタフィクション」を好むらしい。
学生以来、現在に至るまで莫大な数の映画や活字を漁り続けてきたが、
一つの嗜好というか志向がメタフィクションにある。
Wikiを開くと、
○フィクションにおいてフィクションの仕掛けを意図的に描き出す
○作り話であることを意図的に鑑賞者に意識させ、虚構と現実の関係について問題を提示する
○自己言及的
などと説明されている。
例えば例示されている作家がカート・ボネガット、ポール・オースター、
P.K.ディック、筒井康隆などまるで自分の本棚の様である。
無意識のうちの選択していた映画や小説はまさしくこのテーマに準じたものなのだ。
従来のオーソドックスな映画や小説は「物語」を一方的に提示するものである。
作品の背後には必ず世界観や設定を伴なった大きな物語があった。
映画を観る、あるいは小説を読むといった行為を通して、
一方的に創作者より発信される物語を受信するしかなかった。
いつしかそれが失われた。
大きな物語はデーターベースへと変わり、
鑑賞者もまた双方向的にアクセスして物語を変化させていく。
ということを、まことに大雑把な翻訳(正確には個人的解釈)だが東浩紀の著作で知った。
ここからがツイッターの話である。
このメディアには数多の利用者がおり、属性や目的などは様々で
一概にツイッターとは……とくくり切れないのは勿論。
ここでは店や会社のビジネス利用という自分のスタンスで話を進める。
従来の販促活動や広報宣伝こそ、まさに物語を一方的に提示するものであった。
広めたい商品という大きな物語があり、あるいは商品に物語を纏わさせ、
それを伝え広めることが企業の営業活動のひとつだった。
商品は実際に販売しているもの自体から、
付属するサービスや店舗空間、イメージといったものまで広義に渡る。
そして広告ではそれらをいかに読み手に伝達、浸透されるかが問われる。
昨今は情報開示やディティールの作り込みが進んでいる。
例えば缶コーヒー。
商品もシンプルで有名人がテレビで缶をごくり傾けたら売れる時代から、
製法や材料やそれに伴うイメージ戦略まで拡がっているのをみれば明らかだろう。
でも物語を語ることには限界がある。
新たな物語はもはや無く、
今や物語のバリエーションと意外な提示方法にしか残された道は無い。
例えばグルメ雑誌の店紹介。
営業時間やメニュー、価格といった基本データーと
それを彩るキャッチコピーや写真で記事が成り立った時代は終わった。
読者はもっと細部の情報、
巷に無料であふれているものではなく、独自の視点を伴なうネタを求めている。
ここでメタフィクションという視点を導入してみる。
例えば物語を語る人の視点。
記事の書く人の個人的な嗜好を通して物語を再構築する。
あるいは物語をつくる人の視点。
提供されるメニューを一つの物語としてとらえるならば、
メニューのつくり手の心情や思いを通して物語を再構築する。
まさにツイッターで自分が無意識のうちに発信しているのはこの再構築なのだ。
多分コーヒーについていくら熱く語っても届くものはそれほど多くは無い。
大きな物語が失われた現在、つくりごとの物語はTL上で空回りするだけ。
自分自身がツイッターを眺める時にいえることだが、
体臭も体温もないツイートには興味がわかないという点である。
発信者の顔がない機械的に発信されたような文章は素通りしていくばかりか、
時として不快感すら伴い、フォローをはずすこともある。
それよりもメタフィクションな発信者の身の回りや嗜好ネタの方が興味を惹く。
結論的に、ぶっちゃけて翻訳するれば、
チッポグラフィアのツイッターは楽屋落ちで自己言及的なのだ。
時として露悪的で皮肉的、時として愛情的で調和的……。
矛盾していてもそれはひとりの人物なのだ。
別に万人受けすると思っているわけではない。
どんな人にも程よい香りや温度があるのと同様、必然的に相性が生じる。
でも体臭も体温もない言葉の羅列よりはプラスであれマイナスであれ何かを喚起させる。
これらのメタレベルから繋がることで、
本来伝えようとした物語へと遠く繋がる道にはなるのではないだろうか?
自分が好んでフォローするツイートもやはり同じ。
例えば店主の好きなものや文章からうかがえる性向などが面白いのだ。
そして例えリアルで会ったことなくても、
やりとりとしていくうちに長年の付き合いの様な気がして頭の中でその人姿を作り上げる。
そしてその人の物語にも興味が生まれ、その店で何かを体験したいと願う。
ツイッターのもう一つの特徴は広告の様に発信者から受信者へという一方的な動きではなく、
返信やコメント、広報(RT)といった双方向性があることである。
これらのやりとりはメタフフィクションの解釈を広げる。
これは読者が小説の物語に登場し、作者と語られている物語にも影響を及ぼすようなものである。
チッポグラフィアのツイッターは店舗名義で発信が基本なのではあるが、
時折、店舗と店主の区分が消え、主観があいまいになる。
さらには外からの声を伴ないさらにあいまになる。
しかしそれはモニター越しであるはずなのに、妙に生々しくリアルなのだ。
無意識のうちだがそれが心地よかった。気が付くとチェックしている。
そしてツイッターは欠かせないものとなった。
以上が私がツイッターにはまった理由である。
それが表題である。
流行りのメディアには興味がうすく、
単行本、雑誌、新聞やレコードなどといった絶滅品種と化しつつある古典的なメディアを好む。
これまでもSNSも面倒くさい、ややこしいとひたすら無視してきたのだ。
ところが例外的にツイッターには結構はまった。
営業時間中も仕事の合間に接続して投稿している。
外出時もiPhoneの電池の許す限りぶつぶつと。
起きるとまずはTLを遡り、興味のあるないネタがないかをチェックしている。
でもなぜ?
誰かと繋がっていたいとか、コミュニケーションを好む性向ではない。
逆に内向へのベクトルが著しく、情報以外の周囲への興味や関心がうすい傾向がある。
それなのにコレにはまった。
その理由が何となくわかってきた。
ウディ・アレンの映画「アニー・ホール」で主人公が唐突にスクリーンから観客向かって話しかける。
昔から大好きなシーンである。
その証拠に自分が学生時代に撮っていた8ミリ映画でも
同様に主人公がべらべらと観客に向けて言及するシーンがあった。そのまんまである。
当時は意識していなかったが、どうやら「メタフィクション」を好むらしい。
学生以来、現在に至るまで莫大な数の映画や活字を漁り続けてきたが、
一つの嗜好というか志向がメタフィクションにある。
Wikiを開くと、
○フィクションにおいてフィクションの仕掛けを意図的に描き出す
○作り話であることを意図的に鑑賞者に意識させ、虚構と現実の関係について問題を提示する
○自己言及的
などと説明されている。
例えば例示されている作家がカート・ボネガット、ポール・オースター、
P.K.ディック、筒井康隆などまるで自分の本棚の様である。
無意識のうちの選択していた映画や小説はまさしくこのテーマに準じたものなのだ。
従来のオーソドックスな映画や小説は「物語」を一方的に提示するものである。
作品の背後には必ず世界観や設定を伴なった大きな物語があった。
映画を観る、あるいは小説を読むといった行為を通して、
一方的に創作者より発信される物語を受信するしかなかった。
いつしかそれが失われた。
大きな物語はデーターベースへと変わり、
鑑賞者もまた双方向的にアクセスして物語を変化させていく。
ということを、まことに大雑把な翻訳(正確には個人的解釈)だが東浩紀の著作で知った。
ここからがツイッターの話である。
このメディアには数多の利用者がおり、属性や目的などは様々で
一概にツイッターとは……とくくり切れないのは勿論。
ここでは店や会社のビジネス利用という自分のスタンスで話を進める。
従来の販促活動や広報宣伝こそ、まさに物語を一方的に提示するものであった。
広めたい商品という大きな物語があり、あるいは商品に物語を纏わさせ、
それを伝え広めることが企業の営業活動のひとつだった。
商品は実際に販売しているもの自体から、
付属するサービスや店舗空間、イメージといったものまで広義に渡る。
そして広告ではそれらをいかに読み手に伝達、浸透されるかが問われる。
昨今は情報開示やディティールの作り込みが進んでいる。
例えば缶コーヒー。
商品もシンプルで有名人がテレビで缶をごくり傾けたら売れる時代から、
製法や材料やそれに伴うイメージ戦略まで拡がっているのをみれば明らかだろう。
でも物語を語ることには限界がある。
新たな物語はもはや無く、
今や物語のバリエーションと意外な提示方法にしか残された道は無い。
例えばグルメ雑誌の店紹介。
営業時間やメニュー、価格といった基本データーと
それを彩るキャッチコピーや写真で記事が成り立った時代は終わった。
読者はもっと細部の情報、
巷に無料であふれているものではなく、独自の視点を伴なうネタを求めている。
ここでメタフィクションという視点を導入してみる。
例えば物語を語る人の視点。
記事の書く人の個人的な嗜好を通して物語を再構築する。
あるいは物語をつくる人の視点。
提供されるメニューを一つの物語としてとらえるならば、
メニューのつくり手の心情や思いを通して物語を再構築する。
まさにツイッターで自分が無意識のうちに発信しているのはこの再構築なのだ。
多分コーヒーについていくら熱く語っても届くものはそれほど多くは無い。
大きな物語が失われた現在、つくりごとの物語はTL上で空回りするだけ。
自分自身がツイッターを眺める時にいえることだが、
体臭も体温もないツイートには興味がわかないという点である。
発信者の顔がない機械的に発信されたような文章は素通りしていくばかりか、
時として不快感すら伴い、フォローをはずすこともある。
それよりもメタフィクションな発信者の身の回りや嗜好ネタの方が興味を惹く。
結論的に、ぶっちゃけて翻訳するれば、
チッポグラフィアのツイッターは楽屋落ちで自己言及的なのだ。
時として露悪的で皮肉的、時として愛情的で調和的……。
矛盾していてもそれはひとりの人物なのだ。
別に万人受けすると思っているわけではない。
どんな人にも程よい香りや温度があるのと同様、必然的に相性が生じる。
でも体臭も体温もない言葉の羅列よりはプラスであれマイナスであれ何かを喚起させる。
これらのメタレベルから繋がることで、
本来伝えようとした物語へと遠く繋がる道にはなるのではないだろうか?
自分が好んでフォローするツイートもやはり同じ。
例えば店主の好きなものや文章からうかがえる性向などが面白いのだ。
そして例えリアルで会ったことなくても、
やりとりとしていくうちに長年の付き合いの様な気がして頭の中でその人姿を作り上げる。
そしてその人の物語にも興味が生まれ、その店で何かを体験したいと願う。
ツイッターのもう一つの特徴は広告の様に発信者から受信者へという一方的な動きではなく、
返信やコメント、広報(RT)といった双方向性があることである。
これらのやりとりはメタフフィクションの解釈を広げる。
これは読者が小説の物語に登場し、作者と語られている物語にも影響を及ぼすようなものである。
チッポグラフィアのツイッターは店舗名義で発信が基本なのではあるが、
時折、店舗と店主の区分が消え、主観があいまいになる。
さらには外からの声を伴ないさらにあいまになる。
しかしそれはモニター越しであるはずなのに、妙に生々しくリアルなのだ。
無意識のうちだがそれが心地よかった。気が付くとチェックしている。
そしてツイッターは欠かせないものとなった。
以上が私がツイッターにはまった理由である。
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