Cafe do BRASIL TIPOGRAFIA

大阪豊中、ブラジルコーヒーの店「Cafe do BRASIL TIPOGRAFIA」のブログ。メニューやお店情報、ブラジル、音楽、ジャズ、コーヒー、焙煎、映画、活字等、毎日更新!

野外で映画を

DVDで「それぞれのシネマ」を観ている。

カンヌ国際映画祭開催60回記念として、
世界中の著名監督に映画館をテーマとした3分間の短編を依頼、集大成した作品である。
3分間というのが素晴らしい。
余所見をしているとあっという間に過ぎてしまうが、
何かを伝えるのには決して過不足ない長さ。そこは腕の見せ所だろう。
そして参加監督の一覧を見ても涎がでるチョイス。詳しくは上記のリンク参照。

何人かの監督に繰り返して使われるモチーフに野外で上映される映画がある。
元来映画は、暗闇に白い画面、そして映写機さえあればどこでも上映可能なもの。
個人的にも劇場以外の場所で観た映画もいくつか記憶に残っている。

子供の頃、夏休みの思い出。
夏の終わりに家族全員で国内の近場を旅行をするのが常だった。
多分伊勢だったような気がする。
海を見下ろす外のテーブル席で白い幕を壁に貼り映写機を使っての上映会。
作品は「ルパン三世」の最初の劇場版(カリオストロではない)。
この作品を観たのがその時が初めてだったのか、二度目だったのか記憶はあやしい。
でも一緒に観ていた父も含めて、家族で楽しんだことが記憶されている。
その時の旅行自体の記憶は全く残っていないのに映画のことだけは鮮明である。
劇場でない場所で映画を観たという新鮮な体験だったのかも知れない。
その後もこの映画は繰り返して観ている。
映画は暗闇を照らす光。人は光に魅せられ自ら暗闇へと入る。

自分は最後のフィルム世代。

映画を観たければ映画館か、テレビ放映しかなかった。
ビデオやDVDが普及する以前、レンタルショップもまた学生以降である。
昔、父が家族のホームムービーを8ミリ(スーパー 8)で撮影して、時々居間で上映してくれた。
自らも大学のサークルで映画をつくっていた。こちらはシングル 8。
マニアックな話だがコダックによるスーパー8と富士フィルムによるシングル 8という
ビデオにおけるベーターとVHSみたいな互換性のないフィルム規格があった。
回顧主義者ではないが、フィルムの質感は環境因子として刷り込まれている。

最近映画館でも時々プロジェクター上映の作品がある。
勿論劇場運営や上映コストを考えると仕方がないのだろうが、
開幕早々、質感の薄いビデオ的な画面を見るとうんざりするしかない。

もうひとつ、野外の映画といえば、アメリカ映画でお馴染みのドライビングシアター。
大学生の頃、京都嵐山のパークウェーにあった。
車で映画を観るというシチュエーションへの憧れが強く、一度友人を誘っ出かけたことがある。
その時の映画は「未来世紀ブラジル」。
今観ても救いのないブラックな映画をチョイスしたのが映画マニアの根の暗さ。



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SOMEWHRE

映画ネタが続く。

親の七光と呼ばないで

ソフィア・コッポラ「SOMEWHRE」である。

この映画もまた、徹底してミニマムな描写で全編を貫いている。
説明的な台詞は一切ない。
説明的なカット割(インサートショット、切り返しなど)はなく、固定カメラ長回し。
その場に感じられる空気感を大切にしたいのだろうか?
仰々しいハリウッド映画文法に慣れている人、
あるいは睡眠不足の人は確実に爆睡へと突き進む。

しかしこの手法は確信犯だと思う。
その点は監督三作目の彼女なりの「親の七光とは呼ばせないわ!」という意気込みなのだろうか?

でも反面、兄貴と親父等が制作でバックアップしているファミリー経営の映画。
これはイタリア系ならでは、マフィアのような血の濃い映画。

しかし描かれているセレブの生活に興味が持てない。
「あ、そうなの」という感じ。

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わたしを離さないで

ネバ~レッミ~ゴ~

どこまでも悲痛な物語である。

近未来というか、もうひとつの別の世界のお話。
設定自体は完全にSF的であるが、予告編、フライヤーなどを見ても、
その点に関しては一切触れられていない。
それはある意味正解かも知れない。
主人公3人の青春物語としてとらえた方が幅広い方にアピールできる。
クローンやドナー、管理社会などと並べたところで一部のSFファンしか喜ばない。
その筋の映画への偏見というか、アレルギーもまた理解できる。

そして説明的な台詞や設定描写を極端に省いた演出で進む。

人でありながら、人ではない。
人として扱われない。単なる交換部品。
感情的な演技を抑圧しながらも、痛々しい運命が横たわる。
閉ざされた未来のない宿命からは逃れられない。

原作をほとんど覚えていないので比較はできないが、映画としては秀作。
しかし悲しく、少し疲れる。




観ていて結構しんどいかもしれない。

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この男、前科あり

映画「ザ・ファイター」。
何といってもクリスチャン・ベイルである。
痩せてオスカー取ったのよ

助演男優賞(ついでにメリッサ・レオが助演女優賞)でオスカー獲得の映画。
でもボクシングに興味のない門外漢には疑問点の多い映画である。
ちなみに実話の映画化である。
そもそもディッキー(兄)ってそんなに有名なボクサーなのだろうか?
映画を観る限り一発屋のボクサーのような気がするのだが、
アメリカ人なら顔や名前を誰でも知っているような伝説的なボクサー?
そして気になるのは、なぜベイルをキャスティングしたのか?
バットマンを演じるくらいなのでそれなりにしっかりしたがたいの人である。
クラック中毒のガリガリのディッキーに、
ウエイトを落とし痩せて役に臨むのかがいまいちよくわからない。
エンドタイトルで登場する本人を見る限り容姿が似てるわけではない。
痩せた役なら痩せた人をキャスティングすればよい。
わざわざバットマンをダイエットさせる必要性はあるのか?
 確かにこの男には前科がある。

この男には前科あり

役に合わせて激痩せするのが好きらしい。
今回は結果、オスカーを見事受賞。
薬中のいっちゃってる視線や落ち着きのない貧乏ゆすりなど演技自体はお見事である。
しかしどうも賞狙いの「はい、はい、お上手ですね。頑張って痩せましたね」
という感じがして冷めてしまう。
果たして結果(受賞)が伴ったので良しなのか?
なんか疑問なんだよな………。

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困ったツーリスト

映画ネタが多い。
というより今年になってから映画をよく観ている。
3月末の現時点で劇場にて30本。
よくこんな商売やっていながらそんなに観るよな、
と自分でもあきれる反面、この調子なら、
10年振りの100本超え(三桁)を達成できそうなぺースと意気込む。
100冊の本と100本の映画に出会う。
十数年来の密かな目標である。
数字のマジックで99本よりも100本、三桁の方が圧倒的にインパクトがある。
逆手に取ったスーパーの398円とかの値付けと同じ。
でもなかなか達成は困難である。
多分ペースが失速してくることは必至なので、達成は危ういだろうけどね。
あと映画の本数が増えるのは心理的にはあまりいい傾向ではない。
現実逃避という側面が強く、身の周りや店絡みがややこしくなってくると
暗闇に2時間ばかり逃避したくなるのだ。
さて今日は公開中の「ツーリスト」

困った映画なのね

結論からいえば、ジョニー・デップとアンジェリーナ・ジョリーがスクリーンで
動いていれば満足というファン以外にはお勧めしない。
演出と脚本に難がある作品。
主語と述語が不一致の文法的に破たんした文章を読まされている気分である。
あるいは視点(一人称など)がころころと変わる文章である。
映画にも守るべき文法やセオリーがある。
特にサスペンス映画は、文法的なロジックが求められる。これは推理小説と同じ。
どれでもよいのでヒッチコックの映画を観ればそれは明らか。
結論の落とし所(いわゆるオチ)があり、それに向けての流れを論理的に組み立てる。
そして肝心なのは、オチから逆算して如何に観客を登場人物に感情移入させ、
ミスリードさせるかという点である。
そのため描写はあくまでも動き中心で客観的視点に徹しなければならない。
あくまでも観客が「勝手に」いれ込んだり、道に迷ったりすることが大切で
映画の途中であらか様に手の内を割ってはならない。
ネタばれになるので、具体的には書かないが、
この映画は視点のぶれはサスペンス映画としては致命的。

劇場を出た時「金返せ~!!」と地団駄を踏むが、ある意味突っ込みどころ満載で、
ブログのネタになっているのでよしとしよう。何でもネタ。
仕方がないのだ。世の中そういうもの。

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西部劇2本

過去の遺物となった西部劇だが、決して嫌いではない。
ぎっしり映画の醍醐味が詰まったジャンルであり、
あまりにも我が身とかけ離れた世界観であるが故、2時間ばかりを現実逃避するには最適なのだ。
最近、2本ばかり西部劇を続けて観賞。
まずは「トゥルーグリット」

コーエン兄弟の西部劇

西部劇うんぬんというよりまずはコーエン印。
さらには制作にはステーヴン・スピルバーグが絡んでいたりと少々売れ線狙いか?
コーエン兄弟の映画は独特のリズム(厳密にはリズムや間のはずし方)があり、
合わないと途轍もなく退屈なだらだら映画と化す。
例えば「バーン・アフター・リーディング」とか。
でも今回は元ネタの映画「勇気ある追跡」がある分、
結構オーソドックスな演出なので大丈夫。
主演というか助演というか子役のヘイリー・スタインフェルドがお見事。
父を殺された14歳の女の子なのにむさくるしい輩たちを相手に丁々発止でやりあうのが面白い。
オスカーにはまだ早い?個人的にはあげてもいい気がする。
あとマット・デイモン。
実はとりわけ男前なわけでもスタイルがよいわけでもない、単なる垢ぬけない
アメリカの田舎のあんちゃんみたいな偏見があり苦手な役者だった。
最近ふと、実はすごい人かも知れないと思い始める。
荒唐無稽なスパイから工場勤めの労働者まで不思議と違和感なく演じている。
デイモン個人ののカリスマ性はないが、役柄にはぴったりとはまる。
その裏には巧みな演技が隠されているのでは?
そう考えていると眼が離せなくなった。
今回も「明日に向かって撃て!」のロバート・レッドフォード
(別に顔が似ているわけではない)を思わせ、
マット・デイモンには全く見えない。
もうひとりのジェフ・ブリッジスもはまり役。
ジョージ・クルーニーとこの人のもごもごと口の中に物を入れた様なしゃべり方は少し苦手だが、
アル中の保安官という役柄にはぴったり。
巧みな役者たちと映画的な今は亡き西部の風景をしっかり楽しめる秀作。

続いては「ウエスタン」
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セルジオ・レオーネ監督の結構古い映画。
調べてみるとベルナルド・ベルトルッチとダリオ・アルジェントが原案というすごい組み合わせ。
165分という長尺なのだが、プロット自体はシンプルな復讐譚であり、そこまで長くはない。
冗長とも評されている執拗な描写がひたすら続く。
エンリオ・モリコーネの旋律をバックにけれんみたっぷりの演出が炸裂。
確かに冒頭部分、筋と関係のない細部の描写が延々と続き、
少々退屈したが、不思議なもので慣れてくるとこれが快感なのだ。
ステーヴン・キングのディティールへの執拗な書き込みに似ているかもしれない。
耳からも繰り返されるモリコーネ節(大袈裟であるが、あまりにも美しい旋律)
が否が応でも刷り込まれ、気がつくと夢中になっていた。
悪役が結構はまり役のヘンリー・フォンダ、
華を添えるクラウディア・カルディナーレの前時代的なグラマラス魅力的だが、
何といってもチャールズ・ブロンソン。
少ない台詞に、ほんとんど表情を変えない岩のような役柄である。
昨今のワイヤーでひらりと舞う最近のアクション映画や
ガンアクションにないもの、それはタメである。
それは間合いとかに言い換えてもよい、一連の動きの中のある凪のような沈黙。
チャールズ・ブロンソンのタメは本当に見事である。
黙っていても不思議と間だけで絵になる役者はすごい。
殺気が消えた静けさから一気にクイックアクションで銃を抜き相手を正確に射抜く。
この流れが素晴らしい。
最期の対決シーンなどは
黒澤映画(椿三十郎)における三船敏郎と仲代達也の居合対決を思わせる名シーン。

2本の映画に共通しているのは、
どちらも的確な役者を的確に配して演出していること。
コスプレジャンル映画ではあるが、
結局演じている人によって作品出来具合が決定されるのだ。面白い。

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落ちる

数年に一度くらい、映画館で落ちることがある。
突然、耐えがたい睡魔に襲われ、推定10分~20分程度眠りに落ちるのだ。

人生万歳?

この映画で久々にやってしまった。
決して退屈な映画だった訳ではない。
世間的には、近年のウディ・アレン作品ではそこそこ評価が高いはず。

でも、セルフコントロールできないのが睡魔。
疲れやら緊張やら適当な分析は可能だが、そこには抗えない力がある。
開演の待ち時間や予告編はご機嫌さんに目覚めていた。
ところが本編が始まったとたんに睡魔が踊り始めたのだ。

 「おいおいウディ・アレンの記念すべき40作目だぞ。ココで寝てどうすねん!!」

睡魔と闘う自分がいる。
にわかに動き始める。動くことで睡魔を防ごうというのか?
ごそごそ、ごそごそ……。周囲が明るければかなり怪しい人だぞ。
台詞がブラックアウトして飛び始める。映像がコマ切れになる。
でも睡魔は強かった。最終的には10分、20分程度睡魔に身を任せる羽目に。
今回も完敗だ。その後は嘘のように眠りは去っていた。
短時間睡眠のおかげでしっかりリフレシュでき、
まるで何も無かったかのように、後半再び映画を観はじめる。
いったいあれは何なのだ?何か恨みでもあるのだろうか?


……てなブログを取ってつけたように書くのには訳がある。
ブログ毎日更新をtwitterのtweetのまとめに頼り切っている。
でも時々機能しなくなる。映画館で突然襲ってくる睡魔みたいなもの。
仕方がないに今回は埋め草を用意したのだ。

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2010年の映画

2010年も残すところ3日。
もうこれ以上映画館へ行くことはかなわぬことは明らかなので締める。

映画は基本映画館。

あの心地よい暗闇に身をゆだね、現実逃避することが映画の醍醐味であり、
仕方がなしに、衛星放送録画の映画も結構楽しんではいるが、DVDやテレビで観ることとは別物。
劇場に何とか足を運んだ本数は90本。
今年も100本の山を越えることは無理だった。
まぁ、こういう仕事をしている割には観ている方だと思う。

どうしても分母が少なく、嗜好もかなり偏ってはいるが印象に残った作品は以下の通り。
順位付けは基本できない性質のため、順不同。


(500)日のサマー 
この堂々たる青臭さはこそ、かつての自分の嗜好そのまま

(500)日のサマー

抱擁のかけら
ペドロ・アルモドバル監督は必見。ハズレがないのはウディ・アレンと並ぶ
そして最近のペネロペ・クルスも素晴らしい。

抱擁のかけら

ハート・ロッカー
いまここにある緊張感。

ハート・ロッカー

マイレージ、マイライフ
意外に退屈しない掘り出し物。ジョージ・クルーニーがはまり役。

マイレージ、マイライフ

シャッターアイランド
この種のオチは好きだな。バレバレちゃ、そうなんだけど

シャッターアイランド

第9地区
後半の悪乗り暴走が素晴らしい。

第9地区

オーケストラ!
出来すぎのファンタジーだけど、楽しめた。
それより劇場の高年齢層には驚いた。ほとんど棺桶状態。

オーケストラ!

冷たい雨に撃て、約束の銃弾を
覚えられない邦題。くさい芝居にくさい展開、くさい映像がたまらない。

冷たい雨に撃て、約束の銃弾を

告白
邦画では文句なしのベスト。この監督は今後も要フォロー。

告白

インセプション
脂の乗ったクリストファー・ノーランに怖いものなし。天才か?

インセプション

川の底からこんにちは
この貧乏臭さは今の日本でしか撮れない映画。すさまじい開き直りパワーがすごい。
監督と主演女優ができちゃったというお決まりのオチ付き。

川の底からこんにちは

瞳の奥の秘密
極めて映画的。あらゆる映像技法を駆使した良作。

瞳の奥の秘密

クリスマス・ストーリー
フランス映画的な快感を久しぶりに堪能。人生って素晴らしい。

クリスマス・ストーリー



多分ほとんどがDVD発売されているはず。ぜひお正月にでもお楽しみください。

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編集

今日は映画における編集のお話。

ずっと映画を観てきたが、商業映画における実務分担の具合が良く分からない。
スクリーンに写される作品のひとつひとつのカットを繋ぎが
果たして誰のによって決定されているのか?

そもそも一番最初に脚本がある。
それを美術や照明、衣装、役者、特殊効果などが具現化した世界を
撮影(カメラマン)が切り取る。
架空の世界を時間を軸に構築するトータルな管理者が監督であろう。
フィルムであれ、デジタルデーターであれ、
素材の断片を切り貼りしていく編集という専門職がいる。
あるカットを別のカットと場面やタイミングを考慮して繋いでいる。

劇映画でもこの繋ぎのリズムの悪い映画がある。
単なる生理的なものだろうが、
カットのつながりが身体が求めている映像の流れとが合わずにギクシャクすることことがある。
これは編集担当者の技術の未熟さや失態と一方的に攻めてよいものだろうか?
そもそも映画によっては絵コンテなるものも存在するだろうし、
ショットの長さ(長回しあるいはカット割り)は監督の演出領域だろう。
時折、リズムに乗り切れないうっぷんを「誰の責任なのだ!!」と責め叫びたくなる。

常々勝手に主張していることがある。

      映画の編集は音楽におけるリズムセクション

という空論。
どちらも流れを支える基盤。
音と音を、映像と映像をひとつの流れに基づき紡いでいき、
全体を大きな塊としてまとめあげる。
観客はリズムが悪いと音にも映像にも乗り切れない。
そのため共に技術的な側面を有する。
映画ではモンタージュ理論、音楽では拍子といった文法が存在する。
当然上手い、下手という技術者としての優劣もあり、
テクニックの見せびらかしといった技術のための技術もある。
例えばゴダール「勝手にしやがれ」で多用された文法違反のジャンピングカットなど。

でも一つだけ言えることは、
本当に素晴らしい編集やリズムセクションは存在することを意識させないということ。
巧みに紡がれた映画の物語を全身で感じている時、
人はいちいち編集がうんぬんなどと考えない。
同様に音楽に入り込んでいる時、ベースやドラムうんぬんなどと考えない。
究極の技術は裏方に徹していながら、実は観客をコントロールするもの。
終わって初めて素晴らしさを思い出すのだ。

劇映画でも冒頭で編集のリズムに乗り切れないと嫌悪を感じた場合
最後まで齟齬を感じたまま終えることが多い。
特にタイトルバック前後のオープニングの繋ぎは、
作品全体へのつかみ(枕)として最も肝心なパートである。
客電が落ち、CMや予告編を経て、本編が始まる。
この時の張り詰めた緊張感をどう作品へ引き込むかは、
センスや技術の見せどころの様な気がする。

余談だが、最近ネットで見受けられる「冒頭映像10分間そのまま配信」
などという戯言は問題外である。

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脳内都市、京都

人々の脳内に存在する都市がある。

「マザーウォーター」絶賛後悔中。

リアルな都市ではない。
それは人々の憧れやファンタジーをかきたて、脳内の幻想のみに存在する都市。
例えば、パリや京都など。
世界中の人々がパリという幻想都市を愛してやまない。
それは凱旋門やシャンゼリゼ通り、カフェやワイン、
ロベール・ドアノーの写真の様にキスをする恋人たちであったりする。
京都もまた同様に幻想の町である。

この映画は非京都人による京都ごっこの映画。

リアルな京都とは全く異なる脳内都市、京都である。
いかにも京都的な喫茶店やBAR、豆腐屋、銭湯など
ステロタイプのアイコンを主人公たちが演ずるコスプレ映画でもある。
京都を舞台にしながらこんなにも京都弁の希薄な映画は珍しい。
標準語、しかも現実味や具体性といった核心
をぼかした会話(これは意図的なダイアログ構成だろう)が延々と続く。

何も起こらない。何も語られない。

表層的な会話だけ上滑りする。
まるで京都の実風景を借りた、舞台劇の様である。
当然、背景は単なる書割であり現実でない。

コーヒー屋的には、小泉今日子の喫茶店が興味深い。
北白川のしずくをがロケ場所。
カレーを食べに行ったことがあり、実際の店を知っているだけに面白い。
小泉今日子は、ナイスカットミルでコーヒー豆を挽き、
コーヒー豆をコーノの4人用円錐フィルター(ウッドハンドル仕様)で淹れる。
多分カリタのポット。
教科書通りに「の」の字でドバドバと湯を注ぎ、しばらくおいて蒸らしているらしい。
物語とは無関係にマジマジと注視してしまった(結構笑える)。
しかし店にはメニューもなければ、伝票もない。
(どうやらインサ―トショットによればコーヒーは400円らしい)

BARも同様。
ウイスキーというより、サントリーの山崎しかない店。
こちらもメニューもなければ、水割りの値段も不明。

不思議なのは主人公全員がサービス業にも関わらず、
昼間からぷらぷらと歩き回っている。その間、店はどうしているのだろうか?
所詮ファンタジーと割り切ればよいのだけれど、やっぱり気になる。

誠に突っ込みどころ満載の映画である。

出来具合はともなく、
これだけいろいろとブログにアップできることを考えれば、ひょっとして元は取れた?

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