井上章一「京都ぎらい」

井上正一「京都ぎらい」読了。
結果は「京都ぎらい」がきらい。
本当は「嫌い」と書きたい。
遅ればせながら読んでみた。
以前から気にはなっていたが、
どうにもコストパフォーマンスが悪そうだったので、
古本屋待ちしていたけど中々出逢えず仕方なしに定価購入。
肝心の京都人のえらそうな思想については感想はない。
それを忘れ去るくらいに文章がきらいなのだ。
つくづく感じるのは文章はリズムだ。
書き手の特有の手癖ともいうべきリズムがあり、流れる。
どうにも、井上氏の文章が合わない。
まずは平仮名の多用。
一例をあげると「自分じしん」「けっしてない」「たしかに」とことごとく平仮名を連ねる。
そして更には句読点でやたらと句切る。
「、」は文章の途中のちょうど息継ぎみたいなものだろうが、
これがやたらと多用される。ブツギレ状態だ。
多著書は知らないが、この本では全編通しての特有の文体
なので、何か意図的な使用法があるのだろう。
文体はリズムとなり、読者は流れに身をまかせる。
文章は単なる情報伝達の手段であるが、
同時に書き手の美意識が詰まったフェティシュなものでもある。
もう相性の世界なので仕方がないが、相当気持ち悪い。
内容がぶっ飛ぶくらいに居心地の悪いひと時だった。
だからどうしてん!
と言われてもオチはないのでこれもまた仕方がないのだが。
07/22のツイートまとめ
嫁さんの今年一番のお薦めということで何気に読み始めたのだが、これが止まらない。
確かに滅法面白いのだ。
西部劇やヤクザ映画のように勧善懲悪的な側面を持ちながらも、
結構リアルな組織や会社の人間関係が渦巻いている。
上下巻の厚めの文庫にもかかわらず、店が暇なのをいいことにほぼ一気読み。
気が付くと閉店時間だった。
tipografia_
昼からツイットが少なかったのは、当然忙しかったわけでも、午前中の反動で反省したわけでもない。「空飛ぶタイヤ」という文庫本を一気読みしていたから。嫁さんのお薦めだが、これが滅法面白い。止まらなかった。ということで代わりにブログは飛んだ。
07-22 19:04暑すぎると音楽を聴く気力も失せますよね @one_for_elena
07-22 18:58いやぁ今日も寒かったですね。一応意味はないとは思うけれども涼しくなるかと思い言ってみた。オーダーストップなう。間もなく7時で閉店。
07-22 18:34今朝焙煎したケニアルイスグラシアを飲むなう。しばらく店頭からはご無沙汰していたけれどもやっぱりうまいねぇ。
07-22 12:05最近は所詮は嗜好品、となるべく開き直るようにしてるんですけどね。RT @apollocoffee: 今朝のシリーズ、③も厳しいですが、②もかなり引きずります。残りを自分で飲んでみたり...。
07-22 11:55うちも犬の散歩の為に毎日5時半起きです(特に短足コーギーは熱せられたアスファルトが危険) RT @vientoarg: いつから打ち水が無意味なほど熱い日本になってしまったんでしょうね…犬はAM散歩もヘバッてしまい限界…
07-22 11:44打ち水なう。多分全く意味なし。風流が漂う間もなく諸行無常に乾いていくはず。
07-22 11:32渡り鳥のように、あるいは家猫のように暮らしやすい(商売しやすい)場所を求めて彷徨いたくなります。RT @merledebiei: 真夏は観光シーズン。死にそうです。
07-22 11:22トラックリストのないMixCDを聴くということは、喫茶店で偶然素敵な音楽に出会うことに似ている。ここで物差となるのが「これ誰ですか?!」率。きっと選曲者としてはこのレスポンスが欲しいのだろう。
07-22 11:00うちはもはや戦う気力も失せるので休みます RT @saisighs: うちだけじゃない、とほっとさせてもらえるシリーズですね(笑)。8月は7月よりひどいんですか・・・ううう・・・
07-22 10:44
数学的にありえない


ジャンル分けがしにくい小説である。
CIAだ、KGBだとスパイが登場し、
サスペンス感たっぷりの巻き込まれ型の人間ドラマか思えば、
後半「予知能力」というSF的なガジェットが登場し、
それをリアルに説明するのに数学、確率論、量子力学まで衒学的な説明が飛び交う。
それらが乱れながらも展開してゆき、ラストでちゃんと集束されるところがお見事。
読後、良質な脚本のハリウッド映画を1本堪能したような気分になれる。
個人的には理系学部を卒業しながらも、数字嫌い。
映画に小説、音楽……と今でいう文系男子の典型。
その反面、徹底した合理主義的な数値化できる世界は嫌いではない。
不可解で混沌とした現世界を理解するために手っ取り早い手段が数字しかないのだ。
例えば、コーヒー屋をやっていて、
決して「おいしさ」は数値化して測ることはできないけれども、
来店数や売上金額は数字として測定可能である。
「数学的にありえない」で鍵となっているが量子力学。
講義で学んだことはないけれども、
エントロピーもシュレーディンガーの猫も小説で知った。
数学なのにどこかしら哲学的で、宗教的。
原理原則に貫かれ、現象面全てが数値化できる世界のはずが、
実は不確定に歪み、崩壊している様は興味深い。
この作品はどこかしらディック的(アメリカのSF作家P.K.ディック)である。
予知能力も彼の十八番のガジェットであり、
伏線や複数視線の物語が並行してすすみ最後に収束される展開、
叙述的などんでん返しなど巧みに引き継いでいる気がする。
余談だが実は「シュレーディンガーの猫」はチッポグラフィア開業前の店名候補未遂のひとつである。
別に量子学的なカフェを目指していたわけではなく、
猫好きで何となく意味ありげで語呂が良いからというだけ。
折角なので、カフェ「シュレーディンガーの猫」を想像してみる。
絶対看板猫はいるだろう。
シャムとかペルシャとか、愛想のない洋猫が営業中は一等席に陣取って、
一日中居眠っていそうである。
ありきたりで平凡な名前を持ちながらも、店名のため
お客にはひたすら「シュレーディンガー(通称“シュレちゃん”)」
とか呼ばれているかもしれない。
猫以上に愛想がないのが店主。
メタルフレームの眼鏡に無精髭、
極端に口数の少ない寡黙なおやじである。
必要なことしか口にせず、
店名の由来とか尋ねたら逆に睨まれそうだ。
陽光の合わない薄暗い店内には、
終日コルトレーンやフリージャズとかがごうごう流れていそう。
メニューはコーヒーのみ。
絶対ネル。
エスプレッソはもちろん、
ペーパーフィルターなどコーヒーじゃない!と力説される。
弛緩できない張りつめた空気はいささか面倒くさいのだが、
コーヒーだけは確かにうまい。
それ故、時々あの濃厚で実存的なコーヒーを楽しみたくなり、
「シュレーディンガーの猫」へと足を運ぶ。
いつか看板猫が気まぐれで心を開き、
突如としてじゃれつく姿を密かに夢見て……。
そんな行きつけのコーヒー屋があってもいいかもしれない。
サリンジャー死す
というより、失礼ながらも「まだ生きてたん!」と突っ込みたくなる。
村上春樹「ノルウエ―の森」で死後30年を経ていない作家は
原則として手にとらないという人物がいたが、感覚としてはこの条件に十分該当する感じ。

ライ麦が1951年なので、既に60年近くの時が流れる。
確かに学生時代には(村上春樹じゃない)旧訳を
マーク・デイヴィド・チャップマンのようにバイブルとして抱えていた。
そういえばこちらも学生時代の定番作家、スペンサーシリーズのロバート・B・パーカーも先日死去した。
もちろん死を悼み、悲しみと共に彼らから学んだ
人生を生き抜くためのささやかな欠片について大いに語りたいわけではない。
いつものだからどうしてん!という記事。
時代は変わる
ああああああああ………という感じで少しショック。
『Lマガジン』『STUDIO VOICE』に続いてチッポグラフィアの定期購読がまた減ります。
またチッポグラフィの開店以来、何度となく記事で取り上げていただきました。
『Hanako』的な店なのかはわかりませんが、読者層とは一致する部分もあります。
雑誌が売れない時代のようです。
(正確には販売部数と雑誌の営業基盤である紙メディアの広告の伸び悩み?)
個人的にはネットも便利でよいのですが、
基本的にはアナログ世代なので、昔ながらの雑誌メディアが好きなのです。
ピンポイントの情報検索では圧倒的にネットメディアの方が有利なのですが、
編集されパッケージ化された情報の集合体としての形態が好きなのです。
情報の速度や蓄積ではネットにはかなわないけれども個人的には
編集者によって偏って取捨選択された情報群ともいうべき3次元のモノに愛着を抱きます。
(時として雑誌のバックナンバーが捨てられないという弊害を伴います)
新聞も同様ですね。こんなニュースが続くと、
「次はアレがやばいよな」「コレもやばいんちゃう」と勘繰ってしまいますね。
(偉そうにボブ・ディランに説教されなくても)確かに時代は変わっていきます。
テーマ : 雑誌(既刊~新創刊) - ジャンル : 本・雑誌
猫はうどん、犬は蕎麦
そして多分、犬は蕎麦だろう。

西加奈子『きりこについて』を読み思いついたのが表題。
多分、無類の猫好き。
昔からいつも猫が裏庭で寝ていて、いじくっていた。
大人になってからも、自分自身、数年前まで猫と一緒に暮らしていた。
猫的な世界や価値観に憧れ、猫小説、猫エッセイも大好き。
これは、環境や記憶をベースとしてこれまでの人生に染みついた習性のようなもの。
うどんもまた同様である。
関西人(大阪人)としてDNAに刻み込まれた習性であり決して消えることはない。
だから猫はうどん。
対して犬は異文化。
記憶にはない伝聞情報ではあるが、小さい頃、犬を飼っていたこともあり、
文字通り飼い犬に手を噛まれたらしい。
それが原因ではないが、何となく犬とは疎遠な人生を過ごしてきた。
嫌いなわけではないのだが、積極的に近づかなかった。犬への接し方を知らない。
蕎麦もまた同様である。
江戸っ子のように粋に蕎麦を楽しみたいのだが、
諸処のお作法やうんちくの障壁に拒まれている気がする。
何となくややこしそうな気がして、ついうどんの血が騒ぎ、蕎麦は遠のく。
だから犬は蕎麦。
最近は犬がいつも傍にいたという連れ合いの影響もあり何となく犬にも接近中。
街中や店の前を通り過ぎる犬をガラス越しに眺めるのも楽しい(犬種も憶えた)。
駐車場に行く途中、いつも愛想のよいビーグルに挨拶する(時々応えてくれる)。
些細なことだがこれまでの人生で体験したことがなく、実は新鮮に感じる。
まぁ、犬も悪くないのかな?
……ってな日々である。
せっかくなんで、ついでに蕎麦にもお近づきになりたい気もする。

STUDIO VOICE
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次号、来月号を以て休刊、というより実質的には復刊の目途がない以上、
素直に廃刊といった方がよいのかも。
今の版型になった平成最初の年以来の付き合いだから、
すでに20年以上(長っ!)毎号欠かさず買っている。
平成元年、就職していきなり関東配属。
都会へ出てきた田舎者気分で情報にあふれる東京という街にしびれ、魅せられた。
休日、憧れであった今は無き六本木のWAVEへいそいそと。
当時、サブカルチャー系ではオシャレな最先端の店?
そこで初めて買ったのがこの雑誌の写真集特集だった。
以来『STUDIO VOICE』にはなぜか必ずこのシーンが付きまとう。
雑誌や本が売れない時代。
そしてレコード(CDはもちろん特にアナログLP)も同様に売れない。
かつて、これらのアナログ文化につぎ込んでいた個人資本はいったいどこへ行ったのか?
決して若年世代を中心に文化そのものが衰退したとか吹聴するつもりはないが、
ネットではないリアル(現物)を楽しみ、所有するのは最早時代遅れなのか?
時期を同じくして、新卒で就職した会社が発行していた情報誌も同様に先日休刊。
過ぎ去ったものへの感慨にふけるつもりはないが、気がつくと時代は変わっている。
取り残されるのは人間のみなのか?
日本カフェ興亡記
でも時々勘違いする方々も多いのもこの世界。
ほっこり空気や憧れだけでも、飽くことなき味の追及だけでも食ってはいけません。
店を継続するには当然ビジネスとして成立させなければなりません。
決して偉そうなことを言っているわけではなく、
自分自身もまた日々試行錯誤の苦闘の毎日です。

この本は、ビジネスモデルとしてのカフェの歴史、
主点は味わいではなく、業界成功者の物語です。
本文では北摂の方ならお馴染みのヒロコーヒーも取り上げられています。
自分自身、ヒロコーヒーには何かと思い入れが強く、
同社がこだわる「自家製」と「地域密着」というキーワードも共感できます。
(久しぶりに店へコーヒー飲みに行きたくなりました)

余談ですがこの本の英題は“THE RISE AND FALL OF JAPANESE CAFE”。
思わず“屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群”
という奇妙な直訳邦題がついたデヴィッド・ボウイの5枚目のアルバム
『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』を思い出しました。
これは余り関係ないすっね。